まるごと受け入れる ということ。

今日は かなぼうちゃんの園で 保護者説明会。
契約に関する話と 来年度の療育体制についての話。
来年度については もう関係ないんだけど どんなふうになるのか
興味もあったので そのまま聞いていた。
この施設は なんてゆーか 療育施設、というよりも
知的な遅れのある子のための保育園、というかんじのところ。
私は そこがとても気に入っている。
でもなかには そこが気に入らない、という人もいる。むしろそっちのほうが多いくらい。
集団療育がメインなわけだけど 個別指導(言語指導)にものすごくこだわる人のなんと多いことか。
以前は 言語聴覚士の先生が常駐していたが それがなくなり
今年度は 外部から週に一度きていただいていて
回数が少ないだのなんだので ものすごくもめた個別指導。
来年度は 言語聴覚士は来なくて 担任である保育士の先生が個別指導をやることになる、とのこと。
ことばの発達に何がいちばんだいじって 普段の生活の中での体験とかかわりあい。
それをいつもともにしている先生が 個別指導をやるって とっても意義ぶかいことだと思う。
いいなぁー どんどんよくなっていくなぁー とうんうんうなずきながら聞いていたら 
最後の質疑応答で 在園児の母たちからクレームの嵐。
泣きながら怒ってる人も数名。
専門施設に専門家がいないということに めちゃくちゃ腹をたてている。
でも 本当に腹をたてているのは その部分じゃないんだろうなぁ と思った。
よーするに しゃべれない子どもに対して腹をたてている。
しゃべれないから コミュニケーションがとれない わけがわからない 
私はこんなにつらいのに 世間には受け入れてもらえない
しゃべれない子は 世間に受け入れてもらえない
その子を育てている私も 世間に受け入れてもらえない
この子の未来はどうなるの この子を育てている私の未来はどうなるの
どうして誰も助けてくれないの

という思いが 怒りとなって こういう形(専門家を置けよ!)で爆発している気がする。

つまりは しゃべれない自分の子を受け入れていない。認めたくない。

でもコミュニケーションがとれないのは そこに原因があると思う。
ことばなんてなくたって コミュニケーションはとれる。ぜったいに。
パニックを起こすのだって 必ず理由がある。
それが何なのかわからないことも あるけれども
まずは 今のままのその子を まるごと受け入れることができているのかどうか
自分に問う必要があるんじゃなかろうか。

母親がまるごとの自分を受け入れてくれず 外側にばっかり求めていたら
そりゃあ こどもはつらいはず。
だいすきなお母さんに受け入れてもらえないうえに
自分のせいで お母さんが苦しんでいるって きっと思っちゃうと思う。

そんな状態でやる ことばの指導に何の意味があるのだろう。

世間の偏見をどうこういう以前に 自分の中にある 障害児に対する偏見に気づくべきでは
ないだろか。

文句を言ってるお母さんたちをせめるつもりはもちろんない。
ある日突然障害児の親になるって けっこうすごいことなのだ。
つらいときは 泣いてわめいて助けをもとめたりやつあたりしたっていいと思う。
でも 自分の中にある問題を見つめること。 
これをしないことには前に進めないのだ。


というようなことを しみじみと考えた一日だった。(長っ

まるごとそのままの今のかなぼうちゃんを受け入れてくださっている園の先生たちには
感謝の気持ちしかないです。
来週の月曜はいよいよ卒園式。さびしいなぁ。
在園児のお母さんたちが 残された園生活をもっともっと楽しめることを願ってやみません。



なんだかシリアスになっちゃったわ。